昭和47年09月29日 教祖生誕祭



 おめでとうございます。教祖生神金光大神様がお生まれになりました日を、このようにしてお喜び申し上げるのでございますけれども。今はこうやって、わずかばかりの人達が、お祝いを申し上げておるという程度でございますけれども。これは、私の願いですけれど、本当に今日という日を、世界中の人間氏子が、お祝いを申し上げさせて頂けれる事にならなければ、世界の真の平和はないと、私は信じております。それは千年先のことやら、万年先のことやら分かりません。
 けれども、祈りはそこにおいて、現在合楽で、合楽の信心の焦点と言われる、和賀心時代を作るというのが、それでございます。和賀心時代というのは、皆さんもご承知の通りに、人間が、人間の知恵力で、月の世界にまでも行けれるほどしの、進歩を見ておるのが、現代の様相でございます。けれども、それに反して、そういう人間の知恵やら力の為に、かえって束縛をされて、かえって、人間が自滅していかなければならないと、言われるほどしの、状態の時でもあるのでございます。
 そこで、世の中の、ハイクラスの人達が、今気づいておること。世の中を、いよいよ平和な、有り難い世の中にしていかなければならないという事を、真剣に考えておる人達は、科学ではいけない。知恵やら力ではいけない、あるのは、心のことを皆が気づいてまいりました。心だと。心を中心にしていかなければ、人間の幸せは、知恵やら力やら、または、科学の力を以ってして、人間が月の世界に行けれるほどしの進歩を見たけれども、そこには、人間の幸せはなかったということです。
 そこで、心だという事を、大きく叫ばれるようになりました。けれども、心々だけではいかん。教祖の神様が「生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり」と教えられておる。一心に願わせて頂く。それは何かと言うと、私の心の中に、和らいだ心、伴うところの喜びの心。その和らぎ賀ぶ心をもってする事によって、和らぎ賀ぶ心には、人間の幸せの条件の全てが伴うてくるものだと教えておられます。
 ただ、自分の心の中に、一つの悟りらしい悟りを開いて、自分だけは、悦に入っておるというのではない。私の心の中に、そういう大きな悟りが開けて、私の心が、何を見ても有り難い、何を聞いても勿体無い。しかも、そこから湧いてくる喜びの心というものが、和賀心である。 そういう心に、人間の幸せの条件であるところの、一切のものが恵まれる、与えられるのだ。しかもそれは、限りなく、無尽蔵に、しかもそれは、あの世この世を通してのものだと教祖様は教えておられます。
 ですから、このことがです、世界中の人達が知るとことなり。確かに人間の幸せというものは、幸福というものは、和賀心を目指さなければならないんだという事が分かっただけでも、世界は平和に、段々なって行くことだろうと思います。ですから、結局、私が頂いておるものを。ここに御神縁を頂いておられる方達が、その気になって、いよいよ和賀心を、自分の心の中から、自分の家庭の中に、そして、村の中に町の中に、その和賀心の、運動員ともお互いがならせて頂くような覚悟で。
 和賀心のおかげを広めていくとうい事がです。世界中に広がった時に、その大元を作って下さった教祖生神金光大神がお生まれになった、今日という日を、世界中の金光大神として、世界中の人達が、今日を、私共が幸せになれる道を説いて下さった方の、ご誕生だとして、祝う賀ぶところのおかげになってくることを、私は願っておる。まぁそういう事を申しますと、本当に合楽の大坪は、古代妄想狂だろうかと言われるかも知れません。けれども、人間が月の世界にでも行けれるようになったのですから。
 私共は子供の時には、まんまんしゃんと言いよったんです。そのまんまんしゃんのところへ、人間が飛んで行けれるようになってきた。そういう事を思わせて頂くとです、ここに一つの和賀心時代というものが託される。そういう時代が来る事を、私共の祈りとしなければならない。それをただ大言壮語するだけではいけませんから、まず私の心の中から、今朝の御祈念の後に、合楽の久保山さんが、毎日日参をして見える。今日お届けをされるのに、ここ四五日、歯が痛んで、こんなに腫れておられる。
 毎日お参りをしてお願いをなさる。ところが、不思議なことが、自分の心の中から湧いてくる。痛いんです。やはり苦しいのです。仕事も出来ないくらいにあるのです。けれども、どこから湧いてくるか分からん有り難さで、昨日一日過ごさせてもらったち言う。そしたら、不思議に痛みが止まって、昨日は、仕事が出来るようになったという意味のお届けをなさっておられます。これは信心をし、教えを頂いて、その教えを本気で行じさせてもらえる人だけにしか分からないところの喜びだ。
 それが久保山さん、和賀心ですよと言うて、今朝から話した事でした。和賀心とはどこから湧いて来るか分からない喜びです。私共がどうでしょうか。一日を一切見る物聞く物が、有り難い対象であるとするなら、有り難いことだなぁもう見る物聞く物、一切が腹の立つ材料という人がありますよね。ですから人間の幸せというのは、金の中に埋ままっておる事でもなからなければ、金殿玉楼のようなお家に住んでおる事でもなからなければ、百味の御食をしておることではないのです。
 どんなに百味の御食が目の前にあっても、それを食べようとする気すら起こらなかったら、もう地獄と同じです。とにかく金殿玉楼のような御家に住まわせて頂いておってもです。それこそ、針の筵の上に座っておるようなものだと言う人があります。これで何の幸せであるということが言えましょう。それこそ、月の差し込むようなあばら家にあっても、例えば、夫婦が親子が、有り難いことじゃ、勿体ないことだという生活が出来るとするなら、それこそが幸せである。
 そういうおかげが頂けれる様にななったら、神様は必ず人間の幸福の条件である所の、一切のものを恵んで下さると言うのが、金光教祖が説かれた、金光教祖の独壇場ではなかろうかと思います。ただね善し悪しを捨てて起き上がりこぼしかな。是は仏教あたりでいう所の悟りです。もう善し悪しも捨てて、自分だけは何時も有り難いんだと言うのです。けれども自分が成程有り難いと言うて、悟りを開いておるだけではいけないのです。そういう心のもう一つ向こうに、和賀心というのがあるのです。
 湧いてくるのです喜びが。そういう心にです金銭の事だって、食べ物のことだって衣食住、人間の幸福の条件の全てが整うてくる伴うてくるのだと。それを教祖の神様は、生神金光大神天地金乃神一心に願え。一心に願う事はどうぞ私の心の中に、和賀心和らぎ賀ぶ心を頂かせて下さいと言うて願えと教えられたのでございます。それを私はそこんところに焦点を置いて二十年間、一生懸命の信心修行をさせ頂いてまいりましたら、なるほど教祖の神様は嘘を仰らないなぁと。
 確かに人間の幸福の条件の全てをです、一つの雛型ではありますけれども、私が頂きそれを表しておる。その私が現わしておる姿を、皆さんに見てもろうて、いうならばそこに手本を置いて、この通りとまでは言わんでもです、この生き方になれば、人間の幸福の条件というものが足ろうてくるのだと説いております。最近ではおかげを頂きまして、どうも合楽はおかしい、合楽の信心はと、まあ金光教ではないように異端視された時代がございましたけれども、この頃では全国から合楽の信心。
 合楽の信心と言うて、合楽の信心を研究にくるようになりました。教学者たちは、私の説く所を、合楽教学と言うております。しかもそれには、人間の幸福の条件の全てがです。私の生き方、こういう生き方をすれば、おかげが受けられると、私が、ここに実証しておるわけであります。まぁだまぁだこれで済んだとは思われません。一生をこのことに尽くしていく。しかも私が今、あの高い塔に書いてあります。
 「和賀心時代を創る」。これは私が創るというのではない。天地の親神様のこれが願いなのである。天地の親神様は、全知全能ではあられない。それこそ人間と神様とが一つにならなければ、本当の働きを現す事が出来なさらんのが、金光教で言う神様なのである。親の事は子が頼み、子の事は親が頼み頼み合い致せとも、神と氏子とが仲良うする信心ぞとも教えておられるわけであります。その和賀心時代をです例えば世界中に、人間総氏子がです。そこのところの心が開けて参ります事をです。
 天地の親神様の願いとしておられる。だからそういう願いが実現する事の為に、どうぞ、私を御用に使うて下さい、私を神様の手に足に使うて下さい。そこで始めてささやかながら和賀心時代というものが、私の心の中から私の家庭に広がっていくのです。それが縁を受けるにしたがって、そのおかげが広がって行く事を、願いとしておかげを頂いておる。先日合楽食堂の中村さんが、お夢の中に合楽という事は愈々有り難い所だ。これは毎日毎日が有り難い勿体無いという信心の稽古をしておった所がです。
 合楽という御霊地という事を頂いておる。合楽と言う所はそのように尊い所だ。私ともは何気なしに合楽と言うておるけれども。その合楽という名こそがです。それこそ天地の親神様の心が、そこに現れておるんだと。合楽というのは男と女が一緒に喜び合うということ。天と地とが一緒に喜び合うという事。神様と氏子が一緒に喜び合えれるということ。あなたのおかげで、いいえあなたのおかげでと喜び合えれる。そういう意味合いが合楽ということである。
 いよいよ本当の楽というのを極楽という風に申します。そこでです私共はあの世に極楽と言うておりますけれども。この世で極楽の心を開かせて頂けれる道を、教祖は教えられたのだという風に私は思うのです。私はここへ参りましてから、始めの頃でしたか、御理解に頂いたのですけれども。成る程合楽というところは、御霊地であろうな合楽というところは、本当に神ながらの御地であるなという事を思うのです。
 私共が、お導きを頂いたのが、善導寺の教会でした。善導寺という、駅の停留所の名前をずっと申しますとね、善導寺でお導きを「善導」を頂いた、大坪一家が。そしていよいよおかげを受けて、段々有り難い勿体無いという事になって「勿体島」という所に到達した。有り難いな勿体無いなと言うことである。その有り難い勿体無いが「椛目」に落ち着いた。椛目のバスの停留所です。椛目というのは木偏に花、そして目と書いてある。木偏に花ということは木は心。
 心に花を咲かせるところだと教えて下さった。心に花の咲く、そういう目が出るところなんだ、椛目は。多く椛目に集まって、おかげを受けた人達は皆、そういう心に喜びの花、喜びの芽を頂いたようなものであります。そういう喜びを、常に持ち続けるというのが常持です。そして合楽にゴールインであります。合楽といういよいよ、そういう信心過程を通らせて頂いてです、合楽とは私だけが幸せになるのではない、私が助かった時には、神様も助かってござる。
 私が助かった時には家内も、私が助かった時には親も子供も助かっておる。本当の意味においての合楽だ。それを私は極楽と思います。自分だけが幸せになるというのではなくて、神様と一緒に幸せになれる、それが極楽なのです。そういう尊い道を説いて下さった。いや教えて下さったのが、教祖生神金光大神だと。その金光大神様が、お生まれになった、今日という日をです。私共がお祝いを申し上げる。それが私共だけではなくて、世界中の人がです。
 そういう和賀心時代に参画して、和賀心を願い求めての日常生活が出来るようになったら、世界中の人が、今日を祝い目出度い有り難い日として、お祝いを申し上げるような事になってくるであろう。そういう願いの元にです、それは、私共が、とてもとても、千年経つか万年経つか分からんけれども、そういう一つの運動をです、展開して、それを子供にも孫にも、伝えて行こうというのが、私の願いでございます。
 皆さんもどうぞ、そういう願いに参画して下さって、和賀心にならせて頂く事の精進、和賀心にならせて頂く道を教えて頂く。ただ願って、どうぞどうぞ、私の心の中に有り難い心を下さいと言うただけではいけない。有り難い心にならせて頂く為には、そこに、ちゃんと道がある。それは難しいことじゃろう。それはただ腕こまぬいてたら難しいことでしょうけれども。今朝から私、皆さんに話した。信心は見やすうせにゃいけん。けれども、楽な信心ではいけないよと。
 楽な信心で、寝ながら金光様と言いながら、おかげの頂けれるはずはない。見やすい信心でなからなからにゃいかん。見やすいという事は、どういう事かというと、朝起きも見やすう出来るようになる信心という。例えば自動車の運転の出来ない、私共は出来ませんが、先生自動車に乗りなさいというたっちゃ出来ません。動かすことも出来ません。そして、機械の色んな名前を覚えるだけでも難しいことなんだ。けれどもそれをいっぺん体得した人はです。それこそ眠り半分ででも運転が出来る。
 どうですか自動車の運転ちゃ難しいでしょう。うんにゃいっちょん難しくはなかと言うに違いはないです。体得したら難しゅうはない。見やすいのです。信心も見やすいと思われるところまで、稽古しなければいけません。そこからね今日の久保山さんのお届けじゃないけれども、どこから湧いて来るか分からない有り難さ。しかも涙がこぼれるほどしに有り難いのですから。人間の幸せはここにあると思うのです。
 そういう心の状態を、いよいよ大きく育てて行こうというのが、和賀心時代を創るということになるのでございます。どうぞ教祖様におめでとうございますを申し上げるのも、有り難うございますと申し上げるのも、やはりそういうおかげを頂かなければ、おめでとうございますも、有り難うございますも出ては来ないと思うのです。年に一回ではありますけれども、お年寄りの方を中心にして。
 今日のお祭りを奉仕させて頂いきまして、本当にその教祖様への万分の一のお礼の気持ちで、今日は皆さんにお集まりを頂いて、是から色んな演劇もあるようで御座います。ささやかながら、お弁当等も出来ております。どうぞそう言う所を意図して下さいまして、みんなの思いを込めてのものでございますから、まぁこれから一日ゆっくりお過ごしを頂きますようにお願いを致します。挨拶が少し長くなりました。有難うございました。